差別を生む場所

それはWeb。

私がここで書くような事柄は sk-44 さんには既に検討済みのことでありましょうし、また私が議論に付け加えられることも――少なくとも sk-44 さんに対してだと――あまり無いかとは思いますが。

たぶん応答することそのものに意味がある、と思いましたので少し答え、というよりも独白として綴ってみたいかと。



その前に多少の訂正を。これは本質には関係ない話ですし、また違っているとしても誤差範囲、と私は考える範疇のものですが……。

以前も書いたように「差別意識は顔に出すな」です。そして、kadotanimitsuruさんは決してそのようには考えない。

ここらへんは私も同様に考えます。もっとも私の表現だと

kadotanimitsuru [これはひどい], [差別] する人間への差別は正当化されるというお話。非道い話だ。/男なんてだいたいこんなもん。もちろん女にも相当するナニがある。必要なのは「礼儀大切」ということ。/増田がこれを公開するのはとても良いこと。知ろう。

http://b.hatena.ne.jp/kadotanimitsuru/20090727#bookmark-14913616

礼儀大切 くらいになりますが。

差別意識を顔に出さないことのプロトコルとしての社会合意さえこの国にはない。そのことを是とされるのがkadotanimitsuruさんの見解立場と私は理解しています

プロトコルが無いことの帳尻はプロトコルでしか解決できない、それが私の立場見解です。個人のコードを書き換えようとする企てでそれを解消しようとするのは過ちだ、と。もちろん sk-44 さんもそのような企てを否とする方であることは理解しています。

誰かにシワを寄せないための「表現の自由」に私は同意するものです。そして、それは規制をもってすることではないと私は考えます。

にも表わされていますし。

差別とは、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性をもたらす権力関係において存在すること。そのような権力関係に対するプロテストが理念型としての「個人」の措定にのみよって贖われるか、私は悲観的です

その悲観を私も共有します。として、ではいかにして差別を解消するか。外枠としての格差(性別、国籍、年齢、等々)を解消する試みはそれなりに有効でしょう。放送出版等の「権威」のある媒体については倫理コード等でその表出を抑える(「顔に出さない」ですね)のも意味はあるかもしれません。また理解されていない事柄について「情報」を出すことで未知を既知に変えることは常に有用。

が、しかし。それでも差別は解消されない。常に有りつづける。少なくとも私の認識するような意味での差別は。



差別とは何か。

例えば

「あなたは○○なんかじゃありませんよね?」

という問いに

「わたしは○○なんかじゃありません」

と答える時、その○○に対する差別と、それへの加担が成立する。差別とは、極言すればそんな作用のこと。

○○には何でも入る。とりあえず人をカテゴライズする何かでさえあれば。その○○が偏見による決めつけに晒されそれに自分がカテゴライズされると「感じた」ならばその言説は尊厳を傷つけるものになる。(その○○がマジョリティーに分類されるかマイノリティーに分類されるかには関係なく)

そして差別の加害は自覚し得ない。なぜなら人は自分の心は認識しても他人の心は類推するしかないものだから。差別とは本質的に「被害」するもので「加害」するものではない。(もちろん「加害者が居ない」という話ではないです。「加害と認識しない」という意味。)

なので、差別をその加害者への批判によって解消しようとする企ては失敗する、どころか逆に差別のマッチポンプを回してしまう結果になる。なぜならば、自覚しない相手に責任を問うことは正に「その○○が偏見による決めつけに晒されそれに自分がカテゴライズされると「感じた」ならばその言説は○○の尊厳を傷つけるものになる」から。

尊厳への攻撃(と感じられてしまう可能性のある言説)は、指摘が批判へ、批判が非難へ、非難が攻撃へ、とランクアップされて感じてしまう。これに対する反応は、反撃か泣き寝入りの2通りしかありえない。かくして多数の泣き寝入り=脱落者を作りながらマッチョの反撃合戦が巻き起こる。それ自体が山ほどの「加害」を撒き散らしながら。

正に、

「差別に対する意識の問題」として片付けることも私は是としません。

な理由の1つ。個別の差別について「情報」を提示して「意識」の改革を目論んでも、Web自体に差別を生み加速するプロトコルが備わっている。それは万人がアクセスし意見することができるというWebの本質そのもの、のこと。

kadotanimitsuru [ネット] 究極のところ「馬鹿は相手しない」という手しかないからなぁ。論破以前に論議になっている時点で負け。「世界村」の苛め荒れ狂う中ででどうやって互いに隔離して生きるか。

http://b.hatena.ne.jp/kadotanimitsuru/20091105#bookmark-17133923

とはいえ今さら新聞とカフェが公共圏を担っていた古き良き時代に戻すというのは時代錯誤ですし、そもそもその「古き良き時代」こそが差別の蔓延していた時代ですし……。



と、ここまでは前振り。以下は余談にして本題、つまり独白として綴る部分です。

永遠の嘘について考えましょう。人間が社会を作ることそのものの持つ幻想について。

これが例えば未開(嫌な言葉だ)の部族制社会であれば(性的役割分担など現代では差別的と見られる概念を含む)部族の慣習や(一部は)掟、そして神話となって表れているでしょう。

そして現代のこの社会では……。そう、「自由、民主、平等」。人権(表現の自由や個人の尊厳の尊重)はそのサブセットとしてあります。なので先に挙げた「マッチョの反撃合戦」でのワイルドカードとしても使われることになります。現代社会を生きる上で否定できない価値観ですから。それはまた差別を否定する根拠でもありますし。

かくしてその「錦の御旗」への準拠合戦が巻き起こる。

でも、そもそも差別が「その○○が偏見による決めつけに晒されそれに自分がカテゴライズされると「感じた」ならばその言説は○○の尊厳を傷つけるものになる」だとすると、その「自由の敵」「人権の敵」とカテゴライズしての批判もまた……。

あえて疑問の形としてこの考察は終わらせていただきます。


こんな考察にもならない考察につき合わせてしまい、sk-44 さん(及びこれを読んでいる方)もうしわけありません。

こんなような事を、あれ、というか「獣」だ「自衛」だという騒ぎの時、というか、それ以前からもずっと感じて考えて。自分のブックマークコメントもそんな理不尽を叩き付けていた部分が多々あった(これは意図的でもあり無意識でもあり)、と思います。

ちょっと「使ってみる」程度のつもりで始めたはてなブックマークですが、結局は差別のマッチポンプへの加担の役にしか立っていなかったかも、と自省するところもあり。*1

そしてなにより「ここには無い」というのがはっきりしてきたかなという思いもあり、これを機会にはてブはいったん止めて、blog の方(ここや本家)でやっていたことに立ち戻ろうかと考えています。創ることでしか個人も世界も前には進めない、そんな想いをあらたにして。

なので今までのように「地を這う難破船」への感想を書く機会は無くなるかと思いますが。あのマッチポンプへ楔を打ち込めている数少ない論説blogと評価し尊敬することに変わりはありません。今後も活躍を期待します。

そして、ありがとう。

*1:少なくとも自分を棚上げして『自衛厨』叩く気にはなれないし